2013年12月31日火曜日

「演歌を育てた男 神長瞭月」 栃木放送 特別番組 その2

「演歌を育てた男、神長瞭月」 栃木放送 開局50周年 特別番組
歌を紡いで  ~演歌を育てた男、神長瞭月~

東京節演奏とインタビュー:昭和ロマンを楽しむ会(帝大生ゆめじ&青空ぴーまん)

明治21年大宮村(現 塩谷町)に生まれた神長瞭月。上京して独学でバイオリンを学び、作詞作曲した演歌を歌いながらバイオリンを演奏する「バイオリン演歌」の先駆者です。

昭和51年に2枚組のLPレコードを発売し、88歳の生涯を終えますが、その生涯は謎に包まれ、活動の詳細もほとんど知られていません。
番組では羽黒村(現 宇都宮市上河内)で作った「羽黒音頭」のエピソードなどを交えながら、その謎に包まれた生涯に迫ります。
CRT栃木放送(ラジオ)
2013年3月31日(日)10:00 - 11:00 1時間特別番組
1530kHz(県央)1062kHz(両毛)864kHz(県北)

<放送内容 その2>
大正14年3月、日本で初めてラジオ放送が始まった。そして短い大正時代が終わり、昭和へと移っていった。

昭和になるとレコード会社が企画・制作を手がけ、専属の作詞家、作曲家が作る歌を歌手に歌わせて発売する「レコード歌謡」が生まれた。これにより流行歌の担い手が演歌師からレコードに変わった。演歌師ではなく、レコードによって歌が流行るようになった。

レコードが国内で大量生産されるようになり庶民もレコードを買いやすくなった。この影響で、街頭で歌本を売りさばいていた演歌師はメディアとしての役割を終えていった。そして演歌師はカフェや酒場などで歌い歩く「流し」に変わっていった。

30代の終り頃、瞭月は関東大震災で閉鎖した音楽教室を以前教えていた芝区三田同朋町(現在の港区芝5丁目)で再開した。そして、作詞、作曲を行い歌手としても活動を続けていた。

瞭月が得意としたのは、元歌のリズムをくずして歌う「くずし」や小唄などの邦楽を基にした歌であった。東京にはまだそのような歌を求める雰囲気が強く残っていた。

昭和16年12月に太平洋戦争が始まった。まだその頃はレコード製作ができる状況であったため、瞭月もレコード会社へ楽曲を提供し続けた。その後、戦局は悪化し空襲はひどくなってきた。

昭和20年の春、瞭月は内縁の妻とともに故郷の上平(うわたいら)に近い栃木県河内郡羽黒村中里(現在の宇都宮市中里町)へ疎開した。まもなく終戦となり、しばらく疎開生活を送った。

そのとき、瞭月はこの地に一つの歌を残した。それが「羽黒音頭」であった。
昭和30年、羽黒村は合併して上河内村となった。地元の村立中学校の音楽教師が運動会でみんなで踊ることのできる演目を探していたところ羽黒音頭というのがあることを知った。その歌と踊りをフォークダンスの代わりにできないだろうかと考えた。

羽黒音頭の魅力は羽黒全体の風景を読み込んでおり詩がよかった。詩人としても才能があった。

昭和40年、残念ながら地元の中学は統合され、その後は運動会で羽黒音頭が踊られることはなくなった。

瞭月は多感な時期を神田で過ごし、50代以降は下谷区上根岸町(台東区根岸2丁目)で暮らした。

<瞭月の娘さん談> 
「気が短くて「うるさい」とか言うが野良猫を拾ってきてえさをやったりして気持ちはやさいしい面があった。アイデアが浮かぶと夜中でも起きてギターで作曲をしていた。曲が出来上がるとどうだといって娘に聞かせて手直しなどをやっていた。」

銀座の散歩が大好き。新しもの好き、何が今はやっているかに敏感、人のやらないことをやるのが大好き。

作詞、作曲の音楽の才能以外に発明の才能もあった。発明は関東大震災以降に音楽教室を再開した頃から始めた。発明品を作って特許をとってその権利を売り音楽活動とともに生計を立てていた。消火用ポンプ、漬物を簡単に作ることができる容器など日常使われるものをたくさん特許にした。歌だけで生活するのは大変なことだと自覚していたようだ。

昭和32年暮れ、早稲田大学図書館から瞭月はある依頼を受けた。それは、「街からいなくなってしまった演歌師の証言を残すために演歌を歌ったほしい」という依頼であった。瞭月69歳のときであった。

初めて演歌にバイオリンを使った「残月一声」を含め、35分間でかって歌われていた演歌53曲を一気に歌いきった。

70歳を過ぎても自分の作った歌をレコード会社へ売り込みに行き続けた。しかし、当時の音楽業界には瞭月が生きていく場所は限られていた。

東芝レコードで昔の演歌を記録に残すためにレコードを出そうという企画をしたが売れそうにもないので周囲はひややかだった。仕方がないので、資料もの、歴史ものとして熱烈な演歌ファン向けに発売した。

神長瞭月の出すレコードだから彼とぶつかる人は選ぶことができない。瞭月自身とその弟子筋に当たる演歌師や親交のある芸者たちが録音に参加した。和やかに収録を進み半日ですべ取り終えた。昭和43年5月、東芝レコードから「演歌集 これが演歌だ」が発売された。瞭月79歳のときであった。

昭和40年代後半になると瞭月は演歌師の生き証人としてテレビや新聞で取り上げられ、再び注目された。そして昭和51年4月、「-これが基本演歌だ- 元祖・神長瞭月」のLP2枚組(45曲)をビクター音楽産業から発売した。瞭月87歳のときであった。

東芝から「演歌集 これが演歌だ」のレコード発売後にディレクターのチノさんは瞭月から未発表原稿20枚を預かった。しかしその詞を歌える歌手はそのレコード会社には当時いなかった。

しかし、未発表原稿の中の1曲は後に他のレコード会社から発売された。昭和48年3月、キングレコードから踊りに使う舞踊歌謡シリーズが発売され、その中に使われた。85歳からなくなるまでの毎年、このシリーズに瞭月の新作が採用された。そして生前に最後に発表されたのが「義経千本桜」であった。

昭和51年12月2日、瞭月はいつものように銀座へ散歩に行き帰ってから銭湯に行き食事を取って寝た。翌日、起きてこないので妻が起こしに行くと永遠の眠りについていた。88年の生涯であった。

続く <その3へ  <その1へ
昭和ロマンを楽しむ会,昭和浪漫,昭和ロマン,昭和演歌,大正演歌,明治演歌,懐メロ, ナツメロ,バイオリン演歌,書生節,昭和演歌師,平成演歌師,帝大生ゆめじ,青空ぴーまん,t栃木放送,神長瞭月,添田唖蝉坊,石田一松,船村 徹,特許

2013年12月29日日曜日

「演歌を育てた男 神長瞭月」 栃木放送 特別番組 その1

「演歌を育てた男 神長瞭月」 栃木放送 特別番組 その1

<感想>
神長瞭月は単なる演歌師では終わらない多才な才能があった。演歌に初めてバイオリンを導入した演歌師だけではなく、作詞、作曲、音楽教室経営、特許取得なども行った。また反権力の歌ばかりを歌い稼ぐようなこともしなかった。

神長瞭月は余りにも多才すぎたためかいわゆる街頭での演歌師活動を長くは続けなかった。このためか添田唖蝉坊と比較して全国的にも、栃木県内でも余り有名ではない。しかし、われわれバイオリン演歌師としては一番尊敬している演歌師である。

昭和ロマンを楽しむ会の帝大生ゆめじ&青空ぴーまんも現役演歌師としてこの番組に出演して東京節(パイノパイノパイ)を歌い、またインタビューも受けている。

「演歌を育てた男、神長瞭月」 栃木放送 開局50周年 特別番組

歌を紡いで  ~演歌を育てた男、神長瞭月~

            東京節演奏:昭和ロマンを楽しむ会(帝大生ゆめじ&青空ぴーまん)

明治21年大宮村(現 塩谷町)に生まれた神長瞭月。上京して独学でバイオリンを学び、作詞作曲した演歌を歌いながらバイオリンを演奏する「バイオリン演歌」の先駆者です。

昭和51年に2枚組のLPレコードを発売し、88歳の生涯を終えますが、その生涯は謎に包まれ、活動の詳細もほとんど知られていません。
番組では羽黒村(現 宇都宮市上河内)で作った「羽黒音頭」のエピソードなどを交えながら、その謎に包まれた生涯に迫ります。

CRT栃木放送(ラジオ)
2013年3月31日(日)10:00 - 11:00 1時間特別番組
1530kHz(県央)1062kHz(両毛)864kHz(県北)

<放送内容 その1>
今から100年前、明治時代に東京の下町で「松の声」(ああ夢の世や夢の世や・・)という歌がはやっていた。バイオリンを弾きながら歌っていたのは当時26歳の神長瞭月(本名:神長源二郎)という青年であった。今ではその名前を目にすることも聞くこともなくなった。神長瞭月とはどのような人物であったのだろうか。
彼は現在の歌謡曲のいしずえとなる「演歌」を育てた人。明治、大正、昭和を走り抜けてきた人である。

*明治時代
音楽の原点は故郷の栃木県塩谷郡塩谷町上平(うわたいら)で聴いて育った音であった。
神長家の次男として生まれ、明治36年、15歳のときに東京に出て働きながら勉強しようと上京し
船乗りの養成学校へ通う。
神田の五十稲荷(ごとういなり)の縁日で欣舞節(きんぶぶし) を聴き自分でもなにか歌を作ろうと思って作ったのが田舎から上京した女学生が堕落していく様子を描いた「松の声」であった。

<神長瞭月談>
「本郷の真砂町(当時は真砂の原といって原っぱで夜店などが出ていた)で添田唖蝉坊が向こうの方で歌っていた。あんな歌はもう今の人は飽きているだろう、これじゃ今の人はついてこないだろうと思って反対側で歌った歌が「ああ夢の世や夢の世や・・」の松の声であった。」
真砂の原:現在の本郷4丁目あたり

演奏して見せて歌本を売る演歌師の街頭での営業方法は二通りあった。
1.縁日、祭りで人を集めて行う。「立ち」といった。
2.流し、遊郭、花町を流して歩く「流(りゅう)」といった。
この1.と2.を組み合わせて営業していた。

<神長瞭月談>
「当時は歌を広めるというのは自分の口からお客の耳へ歌を伝えるしか方法はなかった。レコードの代わりを全国を回っている演歌師が行った。(ラジオ、レコードなし)
松の声の時代にはまだ楽器がなかった。虚無僧には尺八があり、ごぜには三味線がある。楽器のない歌はおそらくつまらないものだろう。何かいい楽器はないだろうかと探して見つけたのがバイオリンであった。

バイオリンの一番安いのが2円で買えた。弓が70銭、松脂は10銭、つまり2円80銭あれば一そろいそろった。楽士に2時間ばかり教えてもらって後は家で練習してどうにかバイオリンを弾けるようになった。

バイオリンを弾けるようになって「残月一声」という歌を作った。この歌によって「バイオリン演歌」の誕生となった。明治40年11月、瞭月19歳の時であった。

ここで演歌は二通りとなった。バイオリンを使う「バイオリン演歌」と添田君がやるような素で歌う「素歌(すうた)演歌」。演歌からバイオリンを取ると何が残るかというぐらいバイオリンと演歌は深い関係になってしまった。」

バイオリンを使うようになった人気が高まり新聞でも「流行書生節」として取り上げられ、その第一人者として神長瞭月の名前があげられた。

瞭月が導入したバイオリンは江戸時代の三味線伴奏から昭和に入ってからのギターへの橋渡しとしての役割を果たした。庶民が歌いたいことを歌うための工夫をした。

瞭月が導入したバイオリンで演歌はさらにひとびとに親しまれる存在となった。ここに現代へと続く大衆歌謡の道筋ができた。

*大正時代
明治時代の後半から大正にかけて映画とともに新たなメディアとして登場したのがレコードであった。大正・明治時代には巷ではやっていた歌をレコードにした。歌い手は芸者や書生節を歌っていた演歌師であった

大正3年、瞭月が初めて演歌師としてレコードを吹き込んだ。録音は川崎にあった日本蓄音器商会、現在の日本コロムビアで行われた。

ところがレコードを吹き込んだ後、瞭月は街頭に出て歌うのを止めてしまった。神田明神のそばに独立音楽会という音楽教室を開いた。外部から講師を呼びバイオリン、ピアノ、マンドリン、女学生に人気のあった薩摩琵琶を教えた。最盛期には旧東京市街6箇所に教室を構えた。
また、浅草の人気喜劇に台本を書いたり、時には役者としても活躍した。

大正12年9月1日、関東大震災で東京は焼け野原となり音楽教室は閉鎖を余儀なくされた。このとき瞭月35歳であった。

続く  <その2>  <その3

昭和ロマンを楽しむ会,昭和浪漫,昭和ロマン,昭和演歌,大正演歌,明治演歌,懐メロ, ナツメロ,バイオリン演歌,書生節,昭和演歌師,平成演歌師,帝大生ゆめじ,青空ぴーまん,t栃木放送,神長瞭月,添田唖蝉坊,石田一松,船村 徹,特許