2013年12月29日日曜日

「演歌を育てた男 神長瞭月」 栃木放送 特別番組 その1

「演歌を育てた男 神長瞭月」 栃木放送 特別番組 その1

<感想>
神長瞭月は単なる演歌師では終わらない多才な才能があった。演歌に初めてバイオリンを導入した演歌師だけではなく、作詞、作曲、音楽教室経営、特許取得なども行った。また反権力の歌ばかりを歌い稼ぐようなこともしなかった。

神長瞭月は余りにも多才すぎたためかいわゆる街頭での演歌師活動を長くは続けなかった。このためか添田唖蝉坊と比較して全国的にも、栃木県内でも余り有名ではない。しかし、われわれバイオリン演歌師としては一番尊敬している演歌師である。

昭和ロマンを楽しむ会の帝大生ゆめじ&青空ぴーまんも現役演歌師としてこの番組に出演して東京節(パイノパイノパイ)を歌い、またインタビューも受けている。

「演歌を育てた男、神長瞭月」 栃木放送 開局50周年 特別番組

歌を紡いで  ~演歌を育てた男、神長瞭月~

            東京節演奏:昭和ロマンを楽しむ会(帝大生ゆめじ&青空ぴーまん)

明治21年大宮村(現 塩谷町)に生まれた神長瞭月。上京して独学でバイオリンを学び、作詞作曲した演歌を歌いながらバイオリンを演奏する「バイオリン演歌」の先駆者です。

昭和51年に2枚組のLPレコードを発売し、88歳の生涯を終えますが、その生涯は謎に包まれ、活動の詳細もほとんど知られていません。
番組では羽黒村(現 宇都宮市上河内)で作った「羽黒音頭」のエピソードなどを交えながら、その謎に包まれた生涯に迫ります。

CRT栃木放送(ラジオ)
2013年3月31日(日)10:00 - 11:00 1時間特別番組
1530kHz(県央)1062kHz(両毛)864kHz(県北)

<放送内容 その1>
今から100年前、明治時代に東京の下町で「松の声」(ああ夢の世や夢の世や・・)という歌がはやっていた。バイオリンを弾きながら歌っていたのは当時26歳の神長瞭月(本名:神長源二郎)という青年であった。今ではその名前を目にすることも聞くこともなくなった。神長瞭月とはどのような人物であったのだろうか。
彼は現在の歌謡曲のいしずえとなる「演歌」を育てた人。明治、大正、昭和を走り抜けてきた人である。

*明治時代
音楽の原点は故郷の栃木県塩谷郡塩谷町上平(うわたいら)で聴いて育った音であった。
神長家の次男として生まれ、明治36年、15歳のときに東京に出て働きながら勉強しようと上京し
船乗りの養成学校へ通う。
神田の五十稲荷(ごとういなり)の縁日で欣舞節(きんぶぶし) を聴き自分でもなにか歌を作ろうと思って作ったのが田舎から上京した女学生が堕落していく様子を描いた「松の声」であった。

<神長瞭月談>
「本郷の真砂町(当時は真砂の原といって原っぱで夜店などが出ていた)で添田唖蝉坊が向こうの方で歌っていた。あんな歌はもう今の人は飽きているだろう、これじゃ今の人はついてこないだろうと思って反対側で歌った歌が「ああ夢の世や夢の世や・・」の松の声であった。」
真砂の原:現在の本郷4丁目あたり

演奏して見せて歌本を売る演歌師の街頭での営業方法は二通りあった。
1.縁日、祭りで人を集めて行う。「立ち」といった。
2.流し、遊郭、花町を流して歩く「流(りゅう)」といった。
この1.と2.を組み合わせて営業していた。

<神長瞭月談>
「当時は歌を広めるというのは自分の口からお客の耳へ歌を伝えるしか方法はなかった。レコードの代わりを全国を回っている演歌師が行った。(ラジオ、レコードなし)
松の声の時代にはまだ楽器がなかった。虚無僧には尺八があり、ごぜには三味線がある。楽器のない歌はおそらくつまらないものだろう。何かいい楽器はないだろうかと探して見つけたのがバイオリンであった。

バイオリンの一番安いのが2円で買えた。弓が70銭、松脂は10銭、つまり2円80銭あれば一そろいそろった。楽士に2時間ばかり教えてもらって後は家で練習してどうにかバイオリンを弾けるようになった。

バイオリンを弾けるようになって「残月一声」という歌を作った。この歌によって「バイオリン演歌」の誕生となった。明治40年11月、瞭月19歳の時であった。

ここで演歌は二通りとなった。バイオリンを使う「バイオリン演歌」と添田君がやるような素で歌う「素歌(すうた)演歌」。演歌からバイオリンを取ると何が残るかというぐらいバイオリンと演歌は深い関係になってしまった。」

バイオリンを使うようになった人気が高まり新聞でも「流行書生節」として取り上げられ、その第一人者として神長瞭月の名前があげられた。

瞭月が導入したバイオリンは江戸時代の三味線伴奏から昭和に入ってからのギターへの橋渡しとしての役割を果たした。庶民が歌いたいことを歌うための工夫をした。

瞭月が導入したバイオリンで演歌はさらにひとびとに親しまれる存在となった。ここに現代へと続く大衆歌謡の道筋ができた。

*大正時代
明治時代の後半から大正にかけて映画とともに新たなメディアとして登場したのがレコードであった。大正・明治時代には巷ではやっていた歌をレコードにした。歌い手は芸者や書生節を歌っていた演歌師であった

大正3年、瞭月が初めて演歌師としてレコードを吹き込んだ。録音は川崎にあった日本蓄音器商会、現在の日本コロムビアで行われた。

ところがレコードを吹き込んだ後、瞭月は街頭に出て歌うのを止めてしまった。神田明神のそばに独立音楽会という音楽教室を開いた。外部から講師を呼びバイオリン、ピアノ、マンドリン、女学生に人気のあった薩摩琵琶を教えた。最盛期には旧東京市街6箇所に教室を構えた。
また、浅草の人気喜劇に台本を書いたり、時には役者としても活躍した。

大正12年9月1日、関東大震災で東京は焼け野原となり音楽教室は閉鎖を余儀なくされた。このとき瞭月35歳であった。

続く  <その2>  <その3

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